2017年4月2日日曜日

四旬節第5主日

第一朗読:エゼキエル37・12-14
第二朗読:ローマ8・8-11
福音:ヨハネ11・3-7、17、20-27、33b-45

みなさんおはようございます。
今週は天使大学の授業が始まります。
私は、春休み中の先週の月曜と火曜に東京へ行きました。
しかし、お休みよりもワーキングホリデーになりました。
メリノールのシスター達と一緒に祈りの会をしたり、家の修繕の相談等ありました。
また、京都で先輩のメリノール神父が突然病気になりましたので、新幹線に乗って行ってきました。
でも、神様からすばらしいプレゼントを頂きました。
東京から朝6時に出発の新幹線に乗り、富士山を見ることができ、写真をとりました。
とても綺麗でした。
そして偶然ですが、帰りの飛行機に乗った時もまた、富士山が見えました。
富士山はケンちゃんが好きみたいですね。
みなさん、今週は私にとって難しい週です。
その中で、天使大学の入学式やオリエンテーションキャンプでの責任があります。
学部と大学院の学生全員がオリエンテーションキャンプに行きます。
講演をしたり、ゲームをしたり、祈ったりします。
楽しいですが、準備も沢山あります。
それ以上に今週難しいことは、2年前の48日、お母さんが亡くなりました。
お母さんがいないので、本当に私はからっぽな気持ちです。
本当にお母さんを愛しました。
彼女は私の一つずつのプロジェクトを応援してくれました。
そして子供時代に足の病気をした時も、お母さんは良く守ってくれました。
私が神父になって、とても誇りに思ってくれました。
彼女が良く言った言葉は、「ケンちゃんが神父になったので、私は天国へのチケットを持っています。」でした。
お母さんは2年前に亡くなりましたが、父は4年前に亡くなったので、2年間一人で生活をしていました。
家族で過ごした大きな家でしたが、 お父さんの思いでも詰まった家だったので、彼女はずっとそこで住みたいと思っていました。
そしてお母さんの家は家族にとって駅のようでした。
イベントがあると皆お母さんの家に集まりました。
イースター、クリスマス、サンクスギビング、美味しい料理をお母さんの家で食べました。
お母さんは料理が上手でした。
私達も休みの時はお母さんと時間を過ごしました。
だから今、私はちょっとホームレスです。
家族はあちこちに住んでいるので、お母さんが亡くなってから家を売り、大切な物を分けました。
母はミュージックボックスと絵を集めていました。
父は古い切手と本をコレクションしていました。
お母さんが亡くなった体験から、今日の福音のマルタとマリアの亡くなったラザロへの寂しさがよくわかります。
人は年をとっていても、病気があったとしても、いつでも亡くなるのは早すぎです。
お母さんの命日の前で、私の心は周りの人々の苦しみと共感します。
例えば、妹の夫は糖尿病で足が悪くなり、331日に両足のかかとを切断しました。
長い間傷があったけれど治さなかったからです。
このような苦しみがある時に、神様はどこですか?と質問しますね。
その質問は最近の映画、沈黙で400年前の日本のカトリック信者達も聞いたことでしょう。
その質問に恥ずかしく思うことはありません。
みなさん覚えていますか?
イエスさまも十字架上で亡くなる前に「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ2746節)と聞きました。
その質問はイエスさまの信仰が弱い印ではなく、人間としての質問です。
旧約聖書の中で、ヨブも苦しみの時に同じ質問をしました。
「神様はどこですか?」(ヨブ3020節)考えると、イエスさまとヨブの苦しみの理由は、彼らは素晴らしい人間達だからです。
罪びとではありませんでした。
私の母の場合、ずっと大きな病気はありませんでしたが、年老いて突然脳のガンになりました。
病院に行ってから亡くなるまでたった3週間のことでした。
私はその時、お母さんが苦しまないように神様に祈りました。
彼女は死ぬ前に36時間だけ病院に入院しました。
そして家族に見守られて静かに天国へ行きました。
その時、私は今と同じように入学シーズンで忙しかったため、アメリカに行けませんでした。
そしてお母さんから電話が来ました。
「ケンちゃん、これは私の最後の言葉かもしれません。ケンちゃんありがとう。あなたを愛しています。あなたを誇りに思っています。あなたは私にとって最高の息子です。」
その言葉を聞いて、私は教会から飛び出して空港へ行きました。
残念ながら、私が飛行機に乗っている最中に亡くなりました。
でもお母さんの勇気づける言葉で人生の力を貰いました。
お母さんが、イエスさまとマリア様を信じるように、私も代わりに人生を過ごします。
今日の福音の中で、お母さんが私のためにしたように、イエスさまがマルタとマリアの姉妹のために同じことをしました。
死は終わることではない、それは重要なポイントでした。
その証拠として、イエスさまはラザロを死から回復させました。
みなさん、私達も神様とイエスさまの受難を信頼すれば、永遠の命に会えます。
この命から次の命へ移ることは霊的な旅です。
ですから、御復活の意味は、将来的な神秘だけではなく、今の命のための大切な道具です。
今の命の中でどんな方法でご復活の神秘を生きる事ができるでしょうか。
それは秘跡を通してです。
秘跡を通して、イエスさまと一緒に生活をしています。
秘跡を通してイエスさまが私達に触れたり、私達もイエスさまに触れることができます。
ですからイエスさまが、カトリック教会を通して秘跡を与える目的は、私達が永遠の命を理解するためです。
秘跡を通して、御墓の前の石をよけて、解放します。
それは、身体的な死だけではなく、いろんな生活の問題からの解放、悪い人間関係からの解放、恥ずかしい行いからの解放などです。
カトリック教会の目的は生きるためです。
死はありません。
私達の運命は永遠の命です。
そのために、御復活の前にこの福音が出てきました。
どうぞみなさん、周りの人々が神様はどこですか、と聞いたら、カトリック教会の中にいらっしゃると答えて下さい。
カトリック教会の共同体の信仰、希望、愛を通して、神様とお互いのために幸せの人生を祝います。
それはこの世と次の世のためです。
死は天国の玄関です。
怖いことはありません。

信仰生活を頑張りましょう。